Kodak と富士フイルムの攻防をめぐる 1999 年の論文を読む
フィルム写真の世界で長らく「二強」であり続けた富士フイルムと Kodak。1990 年代、この 2 社は日米貿易紛争の主役でもありました。今回ご紹介するのは、両社の攻防を経済学の視点から分析した 1999 年の論文 "Fujifilm-Kodak Duopolistic Competition in Japan and the United States" です。

著者は Baruch College の Yoshi Tsurumi 氏と Rutgers University の Hiroki Tsurumi 氏 (所属はいずれも執筆当時)。市場シェアの時系列データを統計的に検証しながら、 80-90 年代にかけて「Kodak はなぜ日本市場で苦戦したのか」という問いに迫った内容です。
発端は日米フィルム紛争
1995 年、Kodak は「富士フイルムと通商産業省 (当時) が共謀し、日本の流通網から Kodak 製品を締め出している」として、米通商法基づく申し立てを行いました。米国で約 70% のシェアを握る Kodak が、日本では 10% しか取れていないのは不当な参入障壁の結果だ、という主張です。紛争は WTO に持ち込まれましたが、1997 年 12 月、パネルは全会一致で日本側の主張を認めました。本論文はその直後に書かれたもので、「Kodak の敗因は陰謀ではなく、戦略の欠如だった」という結論を、歴史とデータの両面から論証しています。
戦前の日本は「Kodak の市場」だった
論文はまず両社の歴史を振り返ります。 1930 年代初頭までの約 70 年間、日本の写真市場を支配していたのは Kodak の輸出品でした。転機は 1930 年代初め、日本の化学メーカー (大日本セルロイド) が創業者 George Eastman に日本での合弁生産を持ちかけ、断られたことです。この会社が 1934 年に設立したのが富士写真フイルムでした。 2 年後には Konica の前身である小西六も続き、日米開戦で Kodak の対日輸出は一時途絶えます。
1919年『ヴエストポケツトコダツク作画法 : フヰルム写真術』より抜粋。コダック製品が日本に紹介されたことが確認できる最も初期の文献の一つ。出典:国立国会図書館
戦後、Kodak は 1950 年代に対日輸出を再開します。日本の輸入数量制限は 1968 年に撤廃され、当初 40% だったフィルムの輸入関税も 1976 年には 5% まで下がりました。「舶来の高級品」としての Kodak ブランドは戦後も健在で、参入障壁と呼べるものは着実に消えていった、というのが論文の見立てです。
代理店任せの Kodak、ミニラボで先手を打った富士フイルム
では、なぜその後 Kodak は苦戦したのでしょうか。論文が挙げる第一の要因は流通戦略です。Kodak は 1971 年、日本での販売を長瀬産業に独占的に委ね、自前の販売子会社を設立したのは 1986 年。外資規制が完全撤廃されてから 11 年も後のことでした。長瀬産業は値下げ攻勢でシェアを 1971 年の 6.1% から 1981 年の 17.7% まで伸ばしたものの、日本市場では値下げが「高級品」イメージをかえって毀損した、と論文は指摘します。
一方の富士フイルムは 1976 年からミニラボ (小型の現像所) の展開を開始します。設置数は 1976 年のわずか 10 か所から 1994 年には 13,400 か所まで拡大し、Konica の追随は 1983 年、Kodak にいたっては 1980 年代末までミニラボを持ちませんでした。論文の統計分析 (ベイズ推定による構造変化点の検出と Granger 因果性検定) によれば、日本での Kodak のシェアは 1981 年半ばを境に下落に転じており、その原因は富士フイルムのミニラボ網の拡大だったという仮説がデータからも支持されています。街の DPE 店の獲得競争こそが勝敗を分けた、という分析です。
「人質交換」としての米国進出
本論文のもう一つの読みどころが、富士フイルムの米国進出を「人質交換 (exchange-of-hostage)」戦略として説明する後半部です。これは、相手の母国市場に自ら進出しておくことで、母国市場を攻められた際の反撃手段を確保するという、経済学で研究の対象となることの多い寡占企業間の行動理論です。
富士フイルムは 1958 年にロサンゼルスへ 1 人だけの駐在オフィスを構えて Kodak を含む米国市場の調査を始め、1965 年にはニューヨークに販売子会社 Fuji USA を設立します。1973 年に Kodak の日本シェアが 10% に達すると、Fuji USA は米国での販売を直営化し、Kodak が軽視していたスーパーマーケットの開拓に乗り出しました。1981 年には NBA の公式フィルムとなり、1984 年のロサンゼルス五輪では、入札を見送った Kodak を尻目に公式スポンサーの座を獲得。論文の推定では、まさにこの 1984 年が Fuji USA のシェア 10% 到達と成長局面の転換点にあたります。その 2 年後に Kodak は長瀬産業を買収して日本での直営体制を整えており、両社の動きが互いへの「報復」として連動していたことが年表から浮かび上がります。
| 年 | おもな出来事 |
|---|---|
| 1934 年 | 大日本セルロイドが富士写真フイルムを設立 (2 年後には小西六も参入) |
| 1941 年 | 日米開戦により Kodak の対日輸出が途絶 (1950 年代に再開) |
| 1958 年 | 富士フイルムが Los Angeles に駐在オフィスを開設、米国市場の調査を開始 |
| 1965 年 | New York に販売子会社 Fuji USA を設立 |
| 1971 年 | Kodak が長瀬産業に日本での販売を独占委託 (日本シェア 6.1%) |
| 1973 年 | Kodak の日本シェアが 10% に到達。Fuji USA が米国販売を直営化し、スーパーマーケット開拓に着手 |
| 1976 年 | 富士フイルムがミニラボ展開を開始。高感度フィルム Fujicolor II-400 を日米で発売 |
| 1981 年 | Kodak の日本シェアがピークの 17.7% に到達、以後下落へ。Fuji USA が NBA 公式フィルムに |
| 1984 年 | Los Angeles 五輪の公式スポンサーを獲得 (Kodak は入札見送り)。Fuji USA のシェアが 10% に到達し、Kodak は日本での値下げ攻勢を停止 |
| 1986 年 | Kodak が長瀬産業を買収し、日本で直営販売体制を確立 |
| 1987 年 | 富士フイルムが 35mm 判レンズ付きフィルムを投入 (Kodak に日本で 2 年先行) |
| 1994 年 | 富士フイルムのミニラボが 13,400 か所に。Fuji USA のシェアは 14% に |
| 1995 年 | Kodak が米通商法 301 条に基づく申し立て (Kodak の日本シェアは 8.0% まで低下) |
| 1997 年 | WTO パネルが全会一致で日本側の主張を認める |
時代を超えて
興味深いのは、1999 年のこの論文が「デジタルイメージング技術が 150 年ぶりに写真の市場構造を根本から変えつつあり、両社の事業基盤はもはや安定し得ない」と結ばれていることです。その予見どおり市場は激変しましたが、シェアはフィルムの品質そのものではなく、価格・流通・ブランドイメージで動くというこの論文の枠組みは、フィルム人気が再燃した現在の日本市場を読み解くうえでも役に立ちます。
当サイトが実施した フィルム写真に関する実態調査 2025 では、過去 1 年に使ったブランドの利用率で Kodak (71%) が Fujifilm (68%) を上回り、首位が入れ替わりました。背景にあるとみられるのは 2025 年 6 月の富士フイルムの大幅値上げです。スーパー 301 条の申し立てから 30 年、Kodak が通商政策でも成し得なかった「日本での逆転」が、富士フイルム自身の価格戦略をきっかけに (少なくともユーザーの利用率の上では) 現実になったのは、興味深い巡り合わせと言えるでしょう。
市場の質も変わりました。論文が描いた 90 年代の日本は、値下げがかえってブランドイメージを毀損する「高級品」の市場でしたが、同調査ではフィルムの使用頻度が減った理由の 1 位は 2 年連続で「コスト」(62%)。いまや価格がユーザーを動かす市場です。他方で、現像ラボ選びの最重視点は「価格」(24%) より「品質」(41%) が上回っており、ミニラボ網の攻防が示した「現像インフラを制した側が勝つ」という教訓は、かたちを変えて今も生きているように思えます。
学術論文ではありますが、フィルム写真の歴史を探る読み物としても面白い一本なので、興味のある方はぜひ原文にあたってみてください。 JSTOR の無料アカウントでも閲覧できます。



